2018年 05月 06日
onakagaitai amaimonogatabetai aisutabesugita genninnha soreda |
先日、卒業展全体を取り仕切っている責任者と最後の全体ミーティングがあった。
もうすでに部屋割りも決まっているしなにを発表するかのプロポーサルも提出しているし
話すことといったらリスクアセスメントの部分。
身体的なリスクアセスメント(壁が倒れたりものが落ちてきたり)
とethicalの部分。道徳上のアセスメント。
生徒の一人が、ショックをうける内容が作品内である場合は?という質問をした。
大学側の答えは、
そもそも「美術」展にわざわざ足を運んで来ている時点で見に来る側にも責任はある。
仮にショッキングなレスポンスが受け手からあったのなら、なぜそのようなショッキングな反応がこの文化内で起きるのか、社会的にその作品は現在どの立ち位置にあるのか。多くの視点で作品を知る良い機会になる。と言い切った。(担当者がかっこよく見えた)
不可能だと言い切らず、私はそれが難しいことだとは思わない。という大学の色。イギリス全土の風潮なのか?わからない。日本の美術館での猥褻問題を思い出した。見に来ている側の責任は、どこへ?
PS:(もちろん展覧会案内冊子に倫理上の注意書きを前もってする選択肢もあるよと言及もしていたよ)
追記:責任という言葉について考える。responsibility。責任の持ち方が、イギリス(欧州か?)と日本とではなんだか違うように感じる。個人で本当に責任を持っている。個人が個としてあるイギリス。方や全体で責任をとる日本。犯罪を犯した時は顕著で、加害者側の家族や親族までメディアで取り上げ大衆が攻撃する(責任は個じゃなくて全体だ)というのがわかりやすいのかな。でも最近思うのが、個ありきの全体で生きているのはイギリスなのではと思う。例えばストライキやデモストレーションなど、全体でシステムを変えているのを何度も見た。なにかあれば、日本は見ないふりが多い気がする。知らない関係ない誰かがやってくれるだろう。じゃあ、日本の全体ってなんなんだろう。同調主義?こっちの方がいいよね。同調して責任の濃さを薄めている。イギリスは、責任の濃さは変わらない。うーん、うまく言いたいことがまとまらない。とりあえず一旦ここまで。
by hutonngahuttonnda
| 2018-05-06 12:39
| london